【語りなおすという事】道の駅に並ぶ商品のネーミングを見て思うこと

コピーライターには、「なぜ?」というしつこいくらいの視点があります。「なぜそれを作ったのか」、「なぜそういう表現をするのか」そして「それは誰に届けたいのか」。道の駅などに並んでいる地域商品を見ても、作り手の「想い」がうまく表現されているのもあれば、「謎めいた」感じがする表現もあります。
謎めいた商品を買うのはためらいますが、時々あまりにも珍しすぎて買ったりもします。当然、それを食す時には、恐る恐るですが。

逆に表現がうまい商品は、それを見ただけで「食べている自分が想像できたり、これをあの人に買って行ったら喜ぶだろうな」と一瞬でイメージが湧きます。つまり「表現がうまい商品」とは「その表現により心が動いた状態」と言えますね。
そもそも道の駅での買い物は、「この地域にはどんな珍しいものがあるかな」という探求心があり、スーパーでの日常的な買い物とは「心構え」みたいなものが違いますね。

ただ、なんとなく「もったいないなぁ」という表現がなされた商品が目立つように感じます。そんな商品に限って、素朴で本来の味が楽しめて、「きっと正直に作っているんだろうな」と思ったりします。

例えば「乾燥シイタケ」

これも道の駅ではよく見る食材のひとつですが、出汁を摂る為にわざわざ乾燥シイタケを買う、という事はやっていませんでした。顆粒タイプかせいぜい鰹節でした。

でも「出汁を取った後のシイタケは、実は生のシイタケよりも味が濃くて美味しいですよ」という事を和食の料理人から教えてもらったのを思い出し、自分でやってみたところ、これが本当に美味しくて「一体、今まで食べてきたシイタケは何だったのだろう」と思えるくらい衝撃でした。シイタケのおいしさがアップデートした瞬間でしたね。

ただ、この事実をどれくらいの人が知っているのだろうか?なぜもっとPOP等でほんのちょっと深掘りした言葉で訴求しないのだろうか、なぜ「干しシイタケ」のシールを貼っているだけなのか。

ひょっとして知らなかったのは僕だけかと不安になり、ほぼ同世代から30代にかけて「ねぇ知ってる?干したシイタケって生より美味いの?」と聞いても「シイタケ?」「干す?」「乾燥?」とまるでシイタケ自体に興味が無さげな返答でした。

がしかし、さすが昭和の専業主婦歴60年の我が母82歳は、「そげんさい。天日干しした方が味があって美味い。まぁ生は生の調理方法があるけど、味があるのは乾燥のほうやね」と一蹴されました。

そう言えば、なんとなく子供の頃、まだシイタケが苦手な頃に食べた事のある記憶がよみがえってきた瞬間でした。
味の記憶とは、良くも悪くも恐ろしいものですが、果たして大学1年生の娘にもこの味を記憶させねばと思い、それ以降我が家の出汁コーナーの一角には干しシイタケ様が鎮座されています。

それと同時に、ここでもやっぱり思うのは「語ることを断絶されないように、もう一度語りなおすこと」の必要性でした。
ちょっと手間はかかるけど、この美味しさを娘にも伝える、という親としての食の責務を語りなおす「気づき」を頂きました。

コモディティ化への対応

「語りなおすこと」とは、その多くのコモディティ化した商品やサービス全般に言えると思います。
繁栄と豊かさがもたらした結果とも言えますが、少し意地悪な言い方をすると「過度のサービスとそれを疑う事をせずして享受してきた安寧に胡坐をかき過ぎたかな」とも思ってしまいます。

「ものを作る」時には、同時に「物語も作った方が良い」と考えます。

「ものを語る」には、コンセプトやテーマ、最近では社会的な課題を解決する商品もありますが、めちゃくちゃ美味しくて希少性がある場合を除いて、おそらく上記の「課題」を見据えた「ものづくり」や「ものがたり」が避けられない時代かと考えます。

それを抜きに参戦しても、なかなか生活者との関係性の構築が困難になるかと考えます。
「課題として考えられるものは何か」を考えとりあえず箇条書きでいいので挙げていきます。
次にその課題そのもの対して「なぜそうなのか?」を問い続けます。

この思考作業はとても大事で、初見で挙げた課題の「根っこ」と思えるところまで思考を続けていきます。
簡単に書いてますが、一番しんどい段階です。

やがて「根っこ」らしいものが見つかってくると、初見の課題との「連続性」に着目します。
その思考プロセスから感じられる「言葉」や「映像」、「色や匂い」、「手触り」を紡いでいきます。

と同時にこの時に、その要素を届けたい人、生活者の気持ちを想像します。
「この表現を見たひとにどんな変化が期待できそうか」と考えながら想像します。
そして、その想像の解像度が高いほど、鮮度のいい「ものがたり」が生まれます。

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