【思考がストップしがちな現代】自分なりの答えが見つけにくい

【不思議がらない事の怖さ】

それは一見きれいで、不確実な要素がなく整っている。
区画整理されたきれいな街。そんな街には全国チェーン店のお店が並ぶ。
また、シャビーシックな外観のオシャレなカフェ。そこで提供される、これまたオシャレな料理。
それらを否定しているわけではないが、手放しで歓迎しているわけでもない。
「満足で整い過ぎている」ことへの疑義を持つ、と言いたのです。
また、禅僧の修行僧である雲水のように、超ストイックになれ、と言っているわけでもなりません。
その事象がもたらす、もうひとつの側面を考えてみてはどうか、と思うのです。
例えば、全国チェーン店がならぶ街は、地方では良く見受けられます。
不便さを感じるどころか、すべてが整っているので、娘が幼いころは家族でよく行きました。
ただ、整い過ぎている為なのか、滲み出る特徴が感じられない。
どこか、なにかのコピーにしか見えない。
つまり、一見豪華に見えるが、味のしない料理とでも言いましょうか。
まったく、記憶に残らないのです。
自分なりの記憶というか、感想というか。その事象に対して、無反応でありそれ以上何も残らないのです。

【とはいえ、もがく現実の毎日でもある】

よく「余白の美」とか「不足から始める〇〇〇」とかありますが、セレクトショップの隙間の空間を売るようなテーマ自体は
理解するし、賛同もします。
でも、正直言って続かないのです。時間とお金に余裕がある文化人とは程遠い、組織に依存しない個人事業主である私は、毎日が必死なのです。
とはいえ、先ほどの禅僧の雲水のように顧客の為に「思考の鍛錬」はします。
同時に4冊くらいの本を読み、この考え方は、あのクライアントのあの事業の参考になる、とかヒントノートに次々にメモを入れてます。支払いの請求書を本の栞代わりにして、支払期日までに読み上げる、という変なクセがついてます。
この鍛錬は、先ほど申しました「整い過ぎた現代では、その事象に疑いを持つことを忘れてしまう」という強い危機感が私を奮い立たせます。
自分なりの答え、というか自分が掲げたテーマに沿った鍛錬により生み出された「思考」に経済的価値という値札を付けなくてはなりません。
ですので、テーマ以外の事象や本や情報は、ほとんどスルーします。特に自民党総裁選などは、無視します。
そんなものをテレビで見るくらいなら、お母さんといっしょ、を見てた方が、私にとっては示唆を得れます。
またあまりにも、無視するので、若干人間関係がまずくなった時もありますが、だいたいの人は「島内だから」で納得して頂いているようです。
わたしが掲げているテーマは、また別の機会にお知らせしますが、今の所健康ではあるので、あと25年くらいはこのテーマの達成の為だけに、人生を捧げようと思います。
もがき苦しむ現実にこそ、コピーの分子があります。
その分子には、私がわたしをプロデュースするような物語性も含まれています。
ですので、わたしと何かを組み合わせることで、これまでなかった事象が生まれそうな土壌を常に耕している、という事です。



【学校でも塾でも教えきれない事】

それはもう親しかいません。
このブログでアチコチ話が飛びましたが、結局言いたいことは、この一言です。
親こそ、親ならば、時にはすべての情報や事象から遮断した空間を持つ事。
そして、自分なりの答えが立脚できるような思考のスイッチを持つ事。
それらは、自身の生き方に通ずるし、子はそれを感じることで、いったんは漂流していても必ず自分を取り戻します。
人気職業にはyoutubersがランクインされて久しいです。
つまり、没入できるコンテンツの動画ですね。この動画というものが非常にウザい気がするのです。
なぜなら、没入し過ぎると、思考がストップするからです。ストップするという事は、例えそれが数分でも、私の場合は
テーマについて沿わない事に時間を割いてしまった、と歯がゆくなってしまいます。
テーマに沿った、つまり示唆を得れるような動画は大歓迎ですが、無理な笑いや不自然さが感じられたら一気にシャッターを下ろします。
最近、私がしばし時間を忘れ、没入した事象は2つあります。
いずれも自宅にて、帰省していた娘のそばで起こったことです。
一つは「アリの行列を見ていたこと」。そしてもうひとつは「雨滴を眺めていたこと」です。
娘曰く、ハゲた父が、あの本のような哲学者に見えた。一瞬だが、と後日教えてくれました。
思考することは、自分なりの生き方を貫く事へと導くようです。