【その環境に、コンサマトリー的要素は在りそうか】

その空間は、ひとに通じるものがあるのか。

建築家でもない私が、環境や、建築、空間についてモノを語るなど、あってはならないことだと思いますが、実はつい最近
「これはあるかもしれない」という事象に遭遇する機会があったので、ブログにて記してみようと思い立ちました。
それは、子連れのファミリー層が多い、ある企業の感謝祭のイベントに行ったときに感じた事でした。


「その空間は、ひとに通じるものが在るのか」など大げさなことを考えながら、参加したわけではありません。
しかし、「ひとに通じるもの」という意味は、「本当の意味で、ひとにとって良い環境を作っているのか」という、やや観察眼的な感じで参加したのは事実です。

社員さんたちが、一般客を「ほとめく」「もてなす」という事をやられるわけですが、どうしても中には、マニュアル的な対応しか感じない社員さんも居たりします。
しかし、違っていました。
この企業さんの社員さんたち全員が、ものすごく「前のめり」で「もてなす」事に熱中されていました。
そのエネルギーは、たとえ上司から「やれ」と言われたからやっている、という感じではなく、本当に皆さんお一人お一人が楽しんで、笑顔を大解放しながら、接客されていました。

実にすがすがしい。わたしのようなオッサンでさえ、久しく感じていない「すがすがしさ」を感じました。
これは、ひょっとして「コンサマトリー的な事象ではないのか!」とイベント会場を後にしてジワジワと思うようになったのです。

もうひとつは、52間の縁側

テレビ番組でお気に入りの一つ「新美の巨人」の録画を見ていた時のことです。
はっきりいって、衝撃でした。
詳細は割愛しますが、この52間の縁側の設計者 山﨑健太郎氏の考えに鳥肌が立ちました。

1.8mごとに柱がある。
この1.8mは1間。この距離感が、ひとが心地よい良いと感じる距離のようです。
山﨑氏は番組のなかで言います「その建築は、誰かのためになっているのか」。
収益を上げる為だけの建築を設計することに疑義を持たれた瞬間でした。

もうこのあたりから、画面にくぎ付けになるのですが、さらにトドメを刺されたのが「居方」という聞き慣れない言葉でした。
この「居方」については、番組内で近畿大学 鈴木教授のコメントで紹介されています。
平たく言えば「そこにひとりで居ることが、寂しそう見えない設計をする」ということのようです。
なんというヒューマニティ溢れる方々なのだろう。
なんという観察眼なのだろう。
さきのイベントで感じた、コンサマトリーの要素である「衝動」に近いものを感じました。

つまり、ひとのことを徹底的に考えて、考えて考え抜いて、ようやく一つの建築物として完成させるということなのです。
ひとに通じているのか、という問いは、実はとても大切な投げかけであることを再認識しました。

物語をみつけていく

今回、イベント、建築の居方、ということを通じて「その商品やサービスは、人に通じるものが在りそうか」という視点で見る事の大切さと深さを知りました。
この「問う」⇒「解釈する」のあとには、言語化していくことへと繋がっていくと思いますが、必要以上にコピーっぽくしないことも大切だと思います。
往々にして、自分で書いたコピーは、心血注いだ分、大変良く見えてしまいます。
それでも、このコピーはいったい誰の何の為にあるのだろうか、と考え、そしてもう一度、再考していくこととなります。

物語を書く、ではなく、見つけていくような感覚です。
そして、ワタクシ的にどうしても、見つけなくてはいけないテーマがあります。

なぜ利休は、あの簡単素朴な世界を表現したのか。
そこから得られる示唆は何か。

居方、という言葉を知ってから、利休の目指したものを知ることが命題のように思えてなりません。
わずか二畳半という狭さに、なにがあるのか。
四畳半から二畳半へ。
どういうこと?
きっと難しい世界だと思いますが、挑戦してみます。