【お茶の企画・販促について】生活者との関係性を探ってみよう①

見慣れ過ぎて・・・。

ショッピングモールや街中のお茶屋さんでよく見るお茶のパッケージですね。
可もなく不可もなく。
例えそれがズラッと並んでいても「ああ、そう。」としか認識しません。
最初から、新茶を買いに行くとか、たまには番茶も健康にいいからとか、目的があれば
パッケージがどうであれ、品質の確かさ、試飲できればその旨味の確認、価格で買うわけです。

ここに悲しいくらいの「課題」が鎮座しています。
「買う目的がない場合」ですね。
好きな人は、ひょっとしたら、スマホでお茶の情報やインスタで繋がっているお気に入りのお茶屋さんから
買ったりするでしょうが、実店舗やテナントの周辺では、ついで買いしてもよさそうな「買う目的がない生活者」が漂っていますね。

そんな時に、ふと視界に入ったパッケージが、見過ぎた感がある場合、どうしても、風景の一部にしか
認識できないため、スルーしてしまいます。
スルーするとは、「それがわたしに何の関係があるのか分からない状態」を言います。

仕事柄、マルシェには意識的に行きます。
実は、あるマルシェでお茶を売っていた親子がいました。母と息子、という感じです。
どこかオドオドされている様子で、産地を示す「嬉野茶」とだけ書かれた手書きのPOPがある程度で
何がどう美味しいのか?とかプロしか知らない飲み方や煎れ方など一切なく、素朴すぎるブースでした。

試飲させて頂いたところ、目が覚めるくらいのお茶感があり、おれはいったい普段何を飲んでるのだ、とちょっと自省したくらいでした。
それくらい、これがお茶だったか、という遠い記憶が蘇ってきました。
少し話をすると、こういうマルシェは初めての出店で、戸惑う事ばかりだと。
ですので、お客さんの呼び込み、POPや伝えたいこと等をどう表現していいのか分からない、と言われてました。
ですので、即興で、せっかくこれだけ美味しい試飲ができるのなら、そこに誘導するように「パッケージ前の香をお楽しみください」とか「茶農家の煎れたてのお茶です一!」など声かけするか、それが無理そうなら書いてみてはどうです?とお伝えしその場を後にしました。

で、実はその後、この嬉野茶農家さんを訪ねる事になります。


茶農家に話を聞く

これ以上行ったら間違いなく獣道になる、という感じで散々迷って、ようやく茶農家さん宅に到着。
お茶を、ものすごく丁寧に淹れてもらい、「ああ。ああ。」と唸りながら、話をしていました。
すると、話はお茶の売れ行きについて。
表情が苦笑いになり、お茶の啓発活動の一環で小学校に出前授業のような感じで行かれた時の話がでました。
子供たちに、お茶を飲んでもらい、「おいしいー!」までは良かったのですが・・。

茶農家さん「はい、では質問です。今日、朝ご飯の時、お茶を飲んできた人居るー?」
子供たち「・・・・・」
茶農家さん「あれ?ひとりもいないの?では、何を飲んできたのー?」
子供たち「オレンジジュース!牛乳!水ー!野菜ジュース!」

まさかの衝撃でリアルな話でした。 ひとりもいない、とは。
小学生が自分で朝ご飯を準備するわけではないので、その多くは母親になるのでしょうが、その母親が
例え白ご飯、みそ汁、卵焼きやちょっとしたおかずを用意したとしても、そこにある飲み物は緑茶ではなかった、ということでした。

使わなくなって久しい、茶の道具たち

確かに、急須や茶筒を日常的に使う事はない。
それを使っているシーンを見るのは、実家の80代の母親や親戚の70代の叔母さん家に行ったときくらい。
もっと言えば、台所のシンクの角にあった「三角コーナー」さえもない。
かたやコーヒーになると、うちはカミさんが好きなので、豆をガリガリと挽くヤツがある。
普段はまったく珈琲は飲まないけど、煎れたては確かに美味しいからちょいと頂く。
知らず知らずに、わたしは小さいアメリカ人になっていたのです。
ごめんなさい、茶農家さん。

嬉野の茶農家さんから買ったお茶を改めて、家では飲んでいます。
習慣が途絶える背景には、簡易さ、便利さ、手軽さがあり、それと引き換えに
馬鹿舌になるのだなぁ、とお茶をすすりながら思ったりしたわけです。

これは、もっと生活者との関係を再構築するような企画、販促を考えなければと
思いました。
漠然と生活者ではなく、やはり買い物を主とする母親。
食事に気を付ける、小さいお子さんをお持ちの母親。
手間はかかるけど、この美味しいお茶を飲む意味付けを考え始める事となりました。

続きは②になります。