【違和感を逃さない】そこには自分の根っこがあるはず

違和感⇒問う⇒在り方を相対比する⇒衝動を感じるか

ハッキリ言って、皆さんは「違和感」を感じる事は、時々でもあるのだろうか?
さあさあ、違和感を感じるぞ~!という露骨なことはないでしょうが、「その事象が正しいかどうか」、または「正解か否か」
くらいは日常生活では多々ある事かと思います。

人生は選択の連続だ、ともいいますからね。
買うのか、買わないのか。
行くのか、戻るべきなのか。
採用するのか、見送るのか。
借金してでも得る物なのか。

こういう時に、わたしはこのように考えを巡らします。
いったい何の為にやっているのだろうか。
誰の為にやっているのだろうか。
本来それはどうあるべきものなのだろうか。
なぜそうなっているのだろうか。
この事象に社会的に足りてないモノは何か。
この事象の存在理由は何か。
この事象のライバル何か。
この事象の根っこは何か。
そして、その根っこは、当事者と地続きとなっているのか。つまり、人としての正義の衝動は在りそうか、と問うのです。



非日常ではなく、日常を「見立てる」という感覚

非日常の空間は、日常があるから存在している訳で、非日常を常としてはいけません。
その普段の景色の中にこそ、大げさに言えばイノベーション的な要素が存在していると思います。
この話は資源活用にも資することかと思いますが、つまり「無いものねだり」よりも「今持ってるものをもう一回見てみよう」ということなんです。
その毎日の暮らしの中で、行う「思考」、「行動」、「所作」、「感情」、「安心さの度合い」のようなものを
一度、書き出してみてはどうでしょうか。
一言で言います。「その事象の在り方を見よ」という事です。

めんどくさいですが、おそらくそれが課題解決のスタートだと思います。
そのスタート地点は、すでに目の前にあることが多いのです。
ただそれを、既存の流れと言うか、「まあ、そんなもんだ」でスルーしてきたため、とてもその事象を改めて見る事の意義を感じられなくなってきたと思います。

しばらくはツライ時間があります

これまで、とくに「問う事」をせず「流通のバイヤー」のいう事をしっかりと順守して営業してきたひとには
「問う時間」はそっくりそのまま「悩み」の時間にしかなりません。
だからコンサルや専門家が居るわけですが、かれらへの相談をしながら、やはり自身で問うアジェンダ作成をやってもらいたいものです。
それでも、光明が見えてくるまでは、数か月、数年かかると思います。
私自身が、走りながら、悩みならが、ツライ時間と添い寝をしながら、ここまでやってきました。
ポイントは、続けれるための時間作り、ひとと会う機会を増やす、大げさに言えば同志を増やす。
減らすのは、問う事から生成されてきた課題を解決する為に掲げたテーマにそぐわないものすべて、ですね。

どうせ、なにかを作るのならば
どうせ、なにかを表現するのならば
それが誰かの将来の問題を回避できそうならば
ともに話しながら、見えていたのに見えてなかった事を
まずは見つけましょう。

ご連絡はメールで。
ではまた!