【キャッチコピーについて】五感で捉え、考える。

キャッチコピーを考えるとき、みなさんはどうしているでしょうか。
そもそもキャッチコピーは、スナイパーのように一撃でハートを掴むという役務があります。
一撃必殺、まさに切れ味鋭くです。
当然、届けたい対象が誰なのか?によりますが、大勢の中で自分を意識するときの心理描写を重すぎることなく表現するような感じです。

小学一年生が母親に連れられて、初めて文房具を買いに行くとき。
親しい仲間で焼き肉を食べるとき。
お家以外で、初めて果樹園に行って果物を触って、食べるとき。
バイト代が入って、ちょっと背伸びして洋服を買いに行った時の試着室。
いつもの駅で、予想以上に混んでいるにも関わらず、気になってるひとを見つけた時。

つまり、日常なのです。普段の行動なのです。
キャッチコピーの分子は、取っても取ってもなくならない
ティッシュのような連続の時間に在ります。

でもその時のわずかに鼓動する心拍数を言語化するのです。

どこまで、そのひとに近づくことができるか

届けたいひとを考える。
その時、そのひとは本当は寂しかったのか。
それとも、わずかでも安心を感じたのか。

不安が安心に変わる、その間にこそ、キャッチコピーの分子があります。
分子である以上、何かとペアを組まないと分子ではありません。
算数的に言うと、最小公倍数というより、最大公約数を見つけるような思考になります。

もひとつ補足すると、平方根の定理のような決まりごとも、普遍的な要素としてあります。
この、普遍的な事。
安土桃山、室町、幕府、幕末、明治、昭和。
その時代に、その時代の人が行っていた事。やってきた事から「人間の業」のような示唆を掴むと
無意識レベルに訴求するキャッチコピーが生まれます。

ですから、フランスのバカロレア教育とまでは言えませんが、私が実践している鍛錬は、4冊の異分野の本を同時に読み始めます。
1か月で、およそ4冊の違う分野の本をほぼ同時に読みはじめます。

期限を把握するために、栞代わりに毎月の請求書を挟みます。
これだけで、紛失したり、そもそも払えるのか!というドキドキ感があるのですが、それゆえに気合も同時に入ります。
バカロレア教育に関しては、山口周さんの本にも書かれてますが、人文、医学、法学、神学が必須科目で科されます。
つまり、理系であろうが文系であろうが、その科目が必須受験なのです。
ずいぶん日本と違いますよね。
誰の、何のための、どこに利するのかの疑義を拭えない、日本の教育制度の怠慢と事なかれ主義への憤怒と疑念を禁じ得ません。

話が脱線しましたが、キャッチコピーであるのならば、BtoB⇒toCという意識で書きます。
クライアントの言葉で、どこまで一般の生活者に響く言葉を作れるか、ということです。
toCだけでは、「いいね」という共感までで、その先の「買いたい」とまではいきません。
特にネットの世界では顕著です。
心当たりがある方も多いと思いますが、いいね、のさきに購入するまで到達したことが、どれほどあるでしょうか。

キャッチコピーは、商業的な言葉です。
商品が売れる為の、鮮度抜群の言葉が、キャッチコピーなのです。耐久性より、鮮度です。

その言葉は、切ったら血が出そうか。

上記画像の岸政彦先生の本の中に書かれている一文です。
つまり、その言葉は、活きているのか、ということです。


五感が在るということ。
五感がないということ。

人としての「在り方」を眺めていくと、五感は当たり前のように思えるかもしれませんが、少数ながらも目が見えない人。耳が聞こえない人。うまく喋れない人。
多様性として、性別やジェンダーを声高に言う前から、この国の人として生活をされて来ました。

彼らの生き方を見てみる。
彼らとは、ジェンダーも含めたマイノリティのこと。

五感が揃っていなくとも、表現をされて来ました。
普段着の生活をされて来ました。
その、暮らしをする動作、所作、呼吸・・・つまり「そのひとの、仕方」があるわけです。

そのひとの「仕方」を見つめる

いろんな仕方を辛抱強く見つめる。
それを書き連ねます。
そのとき人はどんな気持ちだったのか。
その苗床をつくり、クライアントの言葉として、短い限られた時間でも、ある意味育て、眺め、見つめて設計していきます。

キャッチコピーほど、ひとに近いものはないと思います。

言葉は、ひとと同じ時間と空間を生きています。

佐賀の企業の皆さま。
自治体の皆さま。
そして、僕を必要と思ってくれるであろう誰か。

ご連絡お待ち申しております。