「あの頃」はどうだったか
前回ブログで、初めての自分の部屋、ということで少し書かせてもらいました。
前段で、現代のひとのコミュニケーションの在り様を書き、中断で「あなたのあの頃」はこうでしたよね、でまとめて、最後に「こころを、調律する部屋」とコピーを入れました。
ここで肝要なのは、中断の「あなたのあの頃」でどれだけ、親近感というか、こちら側に近づいてもらえるかが重要です。
「あの頃」というのは、概ねどのような事象であっても、似たような心境を持っています。
それを、どれだけエモーショナルに描けるか。
そして、「至らなさ」までも感じるくらい、読み手に迫れるか、書き手の力量が問われます。
つまり、文章としての完成度、ということになります。

知識とアウトプット
AIで何かをサクッと調べてもらう時もありますが、基本的に僕は、本を栄養素のような感じで読んでいきます。
傍らにノートを開いて、こういうシーンをこういう風に描くんだ、など注意点を冷静に見極めながら、書いていきます。
写経ではありませんので、本に書いてあることをそっくりそのまま鵜呑みにはしません。
他人のことばですから、あくまで参考にするだけです。
そのようなノートは、時々数冊分見直して、さらに、注意点を書き足したりします。
でもそのほとんどが忘れています。
不安になるくらい、覚えていません。でも、何かの拍子に遠くから蘇ってくるときがあります。
蘇ってきたときには、最初に書いた文章よりも、すこしたくましくなっている時が多いような気がします。
さて、今回は小学4年生のお子さまをお持ちのお客様に届く世界観を書いてみます。

今日も、食べてる。
わたしの父は、白ご飯が大好き。だから、とうぜんおかずも白ご飯を引き立てる為に在る。
なかでも、鮭は上位にランクインする。
塩気のある赤い身を、特に脂がのっている辺りを、実に美味しそうに父は食べる。
あんまり美味しそうに食べるので、ちょっと頂戴、と言って私も食べてみた。
美味しかったけど、魚臭さが先に来て、きっと父のようには美味しそうには食べていないと思った。

それでも、父を見ていると、あのシャケの影響としか思えないほど、毎日ご飯をお代わりする。
まるで、シャケの栄養か何かが、体中に溶け込んで、父の動きの一つ一つを担っているかのようにも、見えてしまう。
父とは、最近あまり遊んでいない。だから、会話も前に比べて減ってきたように思う。
でも言葉の代わりになるものとして、美味しそうにシャケを食べてくれた。
本人はそんな風にわたしが見ているとも知らずに、今日も、平熱以上の熱量で食べている。
我が家は、今日も平和だ。
食卓は、言葉の代わりになる。
数年先にはやってくるお子様のお部屋、リフォームを前提に一緒にプランニングしていきませんか?

食卓は、言葉の代わりになる
小学4年生の女子というと、自意識が芽生えてきて、特にお父さんとは距離を取りだす微妙な時期ではなかったでしょうか。
実際、我が家の一人娘も、そうだったような気がします。
父としては、いつか来るであろう、娘の反抗期が、ついにやって来たか、という寂しいような、孤独感のような、疎外感のような状況の始まりに、「ま、仕方ない。仕事すっか」に吹っ切るしかない感じだったと思います。
無垢の終わり。
良識の無頓着。
食卓は、そこに家族が集う為に在ります。
このように、何も快適な暮らしや素敵な空間などを語る前に、今、どこにでもある日常を丁寧に綴ることから、世界観を作り上げていくと、普段着から、余所行きの服に着替えるように、なにかこころの準備が整うような気がします。
なぜそうなのかというと、いきなりかっこいい空間や素敵と思える部屋を見せられても、どこか演出が過剰のような気がします。
百貨店で、スタイルのいいマネキンが、かっこいい服を着ているような、欲しいけど自分には似合ってないような、つまり、関係が希薄のような感じがするのです。
理屈っぽいでですね。すいません。
コピーライターですので。ご勘弁を。
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日常からアプローチし、価値の変換を行い、重力のある言葉で、長期的に将来のお客様との関係を構築していきます。