日常にこそ
日常にこそ、語るテーマがあると思います。
やがてリフォームされる日までの、家での「日々の暮らし」、「毎日の生活」、ひとが食べる、寝る、くつろぐ。
例え、単身赴任や大学での一人暮らしの二重生活であっても、繋がっている意識を紐解いていくと、それまで一緒に過ごした時間の重なりの記憶が、誰にでもあります。
日常にこそ、価値を変換させる要素があり、それを物語化していきます。
お家の、交差点。
お正月とか、何かのイベントでは、普段一緒に生活していない人たちがやってきます。
そして、その人たちとは、大概一緒に食事をすることになります。
やや緊張を感じながらの、ごはんタイムなのです。
私は、地方の大学に通う2年生。
祖父が亡くなり、急遽帰省していました。
一番遠くからは、秋田から叔母とまだ小さい姪っ子が来ていました。
せっかく来たので、1週間は滞在するようだ。
姪っ子とは初対面でしたが、とても私に懐いてくれて、叔母も一人の時間ができて、嬉しいと言ってくれました。
食事の時も、姪っ子はわたしの隣にちょこんと座って、普段なら食べもしない野菜やちょっと苦手な魚までも食べて、わたしからの「えらいね」の一言を待っている感じでした。
数日が経つと、付きまとわれるのが億劫になってきたので、わざと食事の時間をずらすようになっていました。
みんなよりも少しだけ遅れて、食卓の輪に入る感じです。
そこで、ちょっとした衝撃を受ける事になるのです。
それは、叔母の娘への一言から始まったのです。
「け?」
くびを横に振る姪っ子。
そして、私の父が叔母に
「けって・・。なに?」と自分の禿げた頭をなでながら聞いていました。
叔母は、「ああ、ごめんごめん。秋田では食べる?_っていうのを、け?って言うのよ」と。
ここで皆が爆笑したんですが、わたしもおかしくて笑いはしたものの、輪の中に居るのに、別の空間に私だけ居るような感覚になってしまったのです。
姪っ子を中心とした階級社会!とでも言いましょうか、なにかもう私は永久に姪っ子のポジションにはなれないのだな、と実感を覚えました。
我が家の小さな食卓には、いろんな人が行き交うものだな、と。
そして、叔母と姪っ子が秋田に帰った後には、わずかに姪っ子の余韻が残りながらも、いつもの椅子やテーブルの感触が待っていました。
すこし、それが嬉しかった。彼らは、静かにわたしを待っていてくれた。

日常の物語化とは
それは、ひとの心象風景の言語化
椅子やテーブルの意味を、物語で表現する
モノの価値の変換をする、という手法です

静的なモノたちに意味を見出す
このような手法で表現していく事が、絶対の正解というわけではありません。
でも、しっとりとこころに響く物語には、モノの意味を別の視点で語っていく要素が含まれています。
それらを総合的に統括するのが、御社にしか言えないブランド力だと思います。
お皿やベッド、ひょっとしたら、洗面台であっても、日常の物語化はできると思います。
なぜならば、静的であるから、です。
コピーライターに、物語化を相談されてみてはいかがでしょう。
きっと御社のブランディングに貢献すると思います。
お客様と、長期的な関係を構築する為。
どうぞ、ご連絡お待ち申しております。