活きた言葉を添える|見る人との関係を強くする。
タンポポの花は、地表ではわずか10㎝程度ですが、目には映らない地中では、その根の長さは80㎝近くにもなるようです。
今回の記事は、目には見えない事象について深掘りし、”問う事の重要性”を書き記します。
教育、農業、そしてクリエーターや表現者の方へ、今の在り方から、これからの在り方を模索されていく上で、活きた言葉を添える事で、あなた方が”世に放つ希望のアンカー”の輪郭を尖らせます。
見る人が、自分ごととして受けてくれるよう、そしてひとりでも多くの方へ届くよう、稚拙な文ですが、ご参考になればと思い書き記しました。
対話型鑑賞がもたらしたこと|目に映らない事象への探求。
あまり馴染みのない、対話型鑑賞は、別名VTS(ビジュアル・シンキング・ストラテジー)と呼ばれ、1980年代にNY美術館で始まったとされています。
私も全く知らなかったのですが、ある本を読んでその存在と意義に深く共鳴を致しました。
その本に書かれてあった一説をご紹介します。
学芸員と5歳の男の子の会話です。
モネの蓮池を鑑賞していた男の子。ふと学芸員が声を掛けます。
「何が描かれているか分かる?」男の子は、しばし沈黙の後にこう答えるのです。
「カエル」。
一瞬、学芸員は戸惑いますが、この絵のことは技法や歴史を含め、すべてを把握していたので、カエルが描かれているわけはありません。そこで、学芸員はその男の子に、こう聞きます。
「どこにカエルがいるのかな?」。すると、男の子は驚愕の答えを言うのです。
「いま、潜っているの」。
また、さらにこの本には興味深いことも書かれてありました。 目に見えないものへの探求です。
その事例として、良く道端で咲いているタンポポを例に挙げていました。

地表では、空に向かってグングン伸びるよりも、地面に張り付いているようなタンポポ。
実は、その根っこは最大で80㎝くらい地中深くに伸びるようです。
少し解説を足しますが、ここは優秀な秘書であるAI君の出番です。
タンポポの根が長い理由
他の植物との競争戦略 背が低く、日陰になりやすいタンポポは、他の植物が生えにくい場所を選んで生き残ります。そのため、根を深く伸ばして自分の領域を確保しているとも言えます。
乾いた土地でも生き抜くため タンポポは日当たりの良い、乾燥した荒れ地でも育つ植物です。長い根は、地中深くにあるわずかな水分を吸収するための工夫です。
栄養を蓄えるための貯蔵庫 ゴボウのように、タンポポの根には栄養がたっぷり蓄えられています。この栄養によって、花が枯れても新しい芽を次々と出すことができるのです。
再生力の源 根を切って水につけると、再び葉や根を伸ばして成長する力があります。つまり、根が生きていればタンポポは何度でも蘇ることができるのです。
生き残る為の手段、という事ですね。
モネにしてもタンポポにしても、どちらも目には映っていないことにこそ、本質とか、構想するチカラがあるように思えます。
タンポポの場合は、生存に関わることですが、進化の系統という観点では、教育関係では”キミはどう生きるのか?”に付随する思考であり、モネの少年の場合は、クリエーターや表現者が、”伝えたいこと”への熟考と構想のヒントとなると思います。
受容のアンテナを麻痺させない|目に映る事象を問う姿勢

快適な空間は、心地よいものですね。
でも、あまりにも満たされた環境では、問う事を放棄したような、情報を受容するアンテナが麻痺していくと思います。
例えば、地方に良くあるショッピングモール。
我が娘も母や友人たちと、なんの疑いもなく行ってました。
別に悪いことをしているわけではありません。ですので、批判する事さえおかしな発言となりますが、
それでも敢えて”アンテナの麻痺の事例”としてここに記します。
ぶらぶらしたり、お店に入って買い物したり、お腹がすいたらレストランで食べて、夕方になったら映画観て、そしてさらに買い物までして帰宅する。
まるで、どこかの街に出かけた一日のようです。
というか、このモールが我が町に出店を発表した際の、プレス発表の場に居たことがあるのですが、このように言われていました。
「わざわざ東京まで行かなくても、私たちがあなた方のこの町に原宿を持ってきます。そこでは、ちょっとだけオシャレして、一日を楽しめる空間が広がっています。」
これを言い変えれば、「原宿のような街を持たないあなた方が不憫でならないので、私たちが作ってやるから、ちょっとだけオシャレして、一日中居て、買い物から食事から、すべての消費をしなさいよ。」と私には聞こえてしまいます。
このモールには、元バンカーである、私の父も苦言を呈していた事も、大きく関与しているのですが、それはこの一言があったからです。
「地元には何のお金も残らない」。
モールが稼いだお金は、月末にはすべて本部へと流れていき、地元へ還流されることはないのだと。
確かに、そのモールが出来て以降、その周辺は地価の高騰もありますが、変わっていきました。
私には、それらの発言が忘れられなくて、何の疑いも持たない娘や奥さんが、ネギを背負ったカモに見えてしまうのです。
ですので、ほとんどモールには行かないし、同じようなものなら当然地元資本のお店で買います。
つまり、なにも考えない消費は、わたしはしない、と言っているだけで、個人の自由な行動への批判は許されるものではありません。
ですが、少なくとも目に映る事象には、問う姿勢を貫いています。それは、コピーライターとして生きてきた証でもあります。
「なぜそうなのか。」「それで良いのか。」コピーライターが、アンテナの感度を失くしたら、廃業だと私は思います。

大和インター近くのギャラリーnikoさんで、天体写真家の森さんの個展を見に行ってきました。
森さんは、数学物理の講師という側面も持ち合わせているせいか、とてもまじめな星の写真が飾られていました。
真正面から星と向き合った、とでも言いましょうか、大型望遠のレンズで撮影された木星や土星の写真もあり、これをライブで見続ける生活をしていたら、星を中心とした生活になるのではないか、とさえ思いました。
私が一番この個展で感じたことは、“動的ではないモノが静かに語ってくるコトは何か?”でした。
インスタを開けば、他人が投稿した動画がばかり。もちろん、静的なものもありますが、どうしても動く方へと気を取られてしまいます。
この動かない静的な一枚の写真を見て、何を感じるのか?感じ切れることができるのか?それを言語化できるのか?と出展者の森さんに敬意を表する為にも、しばし写真の前に立ち、五感を研ぎ澄ませるように見入っていました。

この写真は森さんの作品ではありませんが、飾ってある一枚の月の写真を前にした時に、私が頭の中で感じた五感を、言語化してみました。
視覚:今宵も愛でる月が出ている。
聴覚:聴こえてくるのは、宇宙ステーション内の静かに作動する機械の音。
触覚:ごつごつした月の地表というものは、きっと登山途中の靴底のような頑固で荒々しいものだろう。
味覚:月自体は食べ物ではないけれど、やはり白玉饅頭かみたらし団子を想像してしまう。
そして、嗅覚…。
難しいですね。例えば、直視できない太陽の光は、焦げたような、蒸したような、”体感としての匂い”として表現できなくもないですが、その逆の無機質で静寂な月を匂いとして比喩する・・・難しい。
そして、難関の匂いですが、飾られていた写真は三日月でした。そして、その説明パネルにはこう書き記してありました。
月から地球を見た場合でも、欠けて見えるでしょう、と。
そりゃそうだろう、と思いましたが、まさにそれが今回のブログを書くきかっけとなったのです。
自分の視界の方向に誰か人が居るとします。そして、その視界の先の人からの視界には私が映っているのです。 当たり前です。
その、当たり前を言語化したものがこれです。コピーというより、その作品に添える、問いの文、という感じでしょうか。
憧れたのは、静謐な月の香でした。
喧騒な街に住む現実の自分と、静かに満ちては欠けていく月との距離の対比を、目には見えない”匂い”で表現をしてみました。
脳裏にイメージしたのは、凛とした美しい大人の女性から感じられる、柔らかい緊張感。
そして、泥臭く、生活臭にまみれた自分との埋めようがない対比。近づくこともできない距離。
その”間”に漂う匂いを表現してみました。
ギャラリーniko 佐賀市大和町大字久池井2542-2
天体写真家 森 直矢 https://www.mitsunoki.com
まとめ|表現者にこそ最期の使命がある。
AIが正解の中央値を大量に生成する時代において、主観の表現が、その希少性が故に、価値の再定義を担う役目を持つ最期の使者だと思います。
これまで美術館から学生の展示会、そして様々な絵や物の個展へと行ける限り行ってきましたが、まあまあ散見されるのが、とにかく自分が今、コンサマリーな状況なので、早くその熱が冷めやらぬうちに、創っておきたい、という実現願望があり、まあ、それはそれで良いのですが、”自己を肯定する領域での表現だなぁ”と冷めた目で見ていました。
つまり、誰かの何かの関係性を度外視した表現、と言えるかと思います。
別に害がないので、それはそれで良いのです。
ですけど、せっかくの表現のスキル。そして、およそ他人は一生掛かっても追いつけないレベルのセンス。
これを、誰か他者の為に、そしてより良い社会を作る為に生かしてみてはいかがだろうか、と思うのです。
なんだか、説教臭くなってすいません。
表現とは、だれかのこころに火を灯すこと。
そして、そこに目に見えないけれど、確かに在る感覚を言語化していくこと。
どうやら、これから私が目指す方向さえも、ギャラリーniko、天体写真家森さんは、整えてくれたようです。
では、そろそろ余命一週間であろう、我が家の犬の様子を見てきます。
